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佐賀藩

薩摩・会津を書いて「佐賀」を書かないわけにはいけません。

「西洋人も人なり、佐賀人も人なり
薩摩人も同じく人なり。退屈せず、倍々研究すべし」
薩摩藩主・島津斉彬の言葉です。
「佐賀人」を「西洋人」と並べて
「西洋人も佐賀人も同じ人間である。我々薩摩人にできないことはない」
と藩士たちに呼びかけているのです

西洋と並ぶくらい佐賀藩は「近代化のトップランナー」だったのです。

ユネスコ世界遺産に登録された
「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」構成要素の中に
佐賀の「三重津海軍所跡」が含まれています。
他にも日本で初めて鉄製大砲鋳造に成功した「築地反射炉」もあります。

司馬遼太郎氏は
「幕末、佐賀ほどモダンな藩はない」と佐賀藩の先進性を評しています。
佐賀藩は他藩に先んじて近代化を成し遂げることができたのでしょう?

佐賀藩は蘭学の登場も他藩より早く、
永3年(1774)に杉田玄白が『解体新書』を翻訳した頃には、
すでに島本良順が藩内に蘭方医の看板を掲げ、
その門下からやがて伊東玄朴、大石良英、山村良哲らの名医が育っています。
その背景には
江戸時代初期より、佐賀藩が幕府より命じられていた長崎警固役がありました。

江戸時代の日本の対外関係はいかの4つです。
〈長崎口〉は中国人・オランダ人との通商関係
〈対馬口〉は朝鮮国との交隣関係(通交関係)
〈薩摩〉は琉球王国との宗属関係
〈松前口〉はアイヌ民族との関係を指しています。
すなわち長崎口は「西洋」を垣間見る唯一の窓口だったのです。

長崎警固役は「異国」「西洋」に接する機会がありました。
長崎に詰めていた佐賀藩士は
西洋人や、長崎に留学していた知識人と会い国際感覚を磨いたのです。

佐賀藩の近代化政策の取り組みは、10代藩主・鍋島直正が起点となります。
直正はオランダ商船に自ら乗り込み船内を見学しました。
藩主として「前代未聞」の行動です。
自らの目で西洋の進んだ文明を実見し、体感していたのです。
直正は毎年「オランダ商船に乗り込んだ」そうです。

東アジア社会に君臨した中国が
欧米の砲艦外交に為すすべもなく敗れその後植民地となりました。
これに最も敏感に反応したのも直正でした。

「近代」=「西洋」に負けない為にどうするか?
直正が出した答えが、鉄製大砲と蒸気船を自力で開発することでした。
まずは「財政改革」を成し遂げ資金調達ができる体制にしています。
そして強大な軍事力を持っておきながら
薩摩・長州のように積極的に先頭に立つ事はありませんでした。
尊王攘夷派とも公武合体派とも手を組まずベストな機会を虎視眈々と狙っていました。

・早稲田大学を創立した大隈重信
明治31年に板垣退助とともに憲政党を結成。
日本最初の政党内閣を組織し、総理大臣に任ぜられました。
・江戸遷都を建白した江藤新平
新政府では初代司法卿となり「司法職務定制」などを制定しました。
・「日本赤十字社」と改称して初代社長となった佐野常民
・北海道の開拓を行い、今の札幌の基礎を築いた島義勇、
・外務卿としてロシアと交渉し、「日清修好条規」の批准などにも取り組んだ副島種臣
・初代文部卿となり、「学制」を領布して明治教育の大綱を作った大木喬任

佐賀藩は維新後の日本の礎を築いていきました。
「長期的視点で世を見ることができた佐賀藩」
チーダー(直正)は未来をみていたんですね。

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